私のボランティアNO89 広瀬寿武
(疑問と隣り合わせのボランティア)
私のボランティアは何時も偽善との間を行き来している。
「ああ、今日は行きたくないな、何で俺はこんな事をやっているんだろう?」
人にも言われる「お前はどうしてボランティアをしているのか?」
この問に私は全く答えられない。答えられるほど確固たる信念を持っていないからだ。
「ボランティアは自己満足の見栄みたいなものか?」
そんな問い掛けもある。
これに関連した原稿を時々書くが、それ程、偽善的な感覚のボランティア。
人間的に欠陥だらけの私が「人のため、何か出来る事がある」なんて、真剣に考えての行動とは、ほど遠い。
ボランティア的行動をするのに、構え、考え、勇んで心を励ます、そんな人もいるだろうが、私はその中にも入らない人種か?
毎週毎週、週2〜3回ボランティアに出掛ける日が勝手にやって来て、何となく出かけて行く。
その場に着くと勝手に私の体が動く。
そうなんです。
精神障害者達に「トシ」と声を掛けられ、同じ事を何回も話しかけられ、しかも楽しいそうに「友達同士だ」と言う相手の気持ちが伝わって来る。
「そうだよ、友達だよ」と私の心が熱く反応する。
ここえ来るまでは偽善だか、見栄だか、そんなもののようだが、仲間になっていく気持ちの中に小さな人間同士の「私だけ」が感じる何かを見つけている。
家では全くする事も無い「昼食作り」が快く、やりがいを覚える。
全く目の見えない盲人社会に入り模索しながらのボランティア。
どんなに長くやっていても、盲人の心や頭の中は絶対に理解出来ない。それは私自身のストレスになり、ボランティア心もあまり宛にはならない。だから出掛けるのがおっくうになる。
だけど、勝手な私の話に返事らしき反応をする彼の手を引きながら、私を頼りにしている気持ちを感じると、おっくうだという「もやもや」は何処にもない。
勝手に一生懸命になっている。何だろうこれは?
終わって、彼にコーヒーを入れ、手をそっとコーヒーカップに触れさせる。
「こぼさなければ良いがなあ」と彼の動作を見守る。
爽やかで快い一時にやりがいを覚える。
老人達、ホームの廊下も、あっちこっちが臭う。老人特有の臭い。好きではない臭いの一つだ。だから入り口で、躊躇をする。
本音です。出来たらこんな臭いを嗅ぎたくはない。
ここは老人ホームの中でも環境、設備、サービスが良い方なのだが、仕方がない臭い。
こんな感覚を内蔵する私のボランティア。
廊下に病室に、老人の住まう部屋に足を運ぶ。
「元気?気分は?」老人達の、お婆さんの、お爺さんのしわくちゃな手を私の両手で包みさすると、細い目で微笑む。
「そうか、こんな俺でも声を掛けると嬉しいのか」勝手な私の思い。
車椅子を押してみんなと遊べるホールに運びながら、何と言う事のない会話が心を繋ぐ。
帰り際に今日遊んだ老人達に声を掛ける。
「トシ、来週は来るのか?」と言う声が私の心に残る。
臭いから開放された、その感覚ではない。老人達の細い声が私を快く送り出してくれた、そんな単純な嬉しさ。
来る時も帰りも臭いは同じだが、やりがいを覚えた瞬間、臭いは消えていた。
結局、ボランティアとは、頭の中での思考、理屈で判断するものではないと感じる。
やってみて終わった瞬間を感じてみる事だと、何となく分かったような気はするが、本当の所は疑問だ。
確かに人間の煩悩、見栄も偽善もあるさ。
私には私にしか分からないボランティアのやりがいと、安らぎがあれば、良いのじゃないのか?
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