私のボランティアNO87 広瀬寿武
(ボランティアと夫婦)
餓鬼道と言っても飢餓に苦しんだ覚えは無いのに、食う欲望は常に私を旺盛にする。
だが、それは食するだけの行為であって、口に入るまでの過程(料理をする)には、殆ど、いや、全く興味が無かった。
毎日毎日、朝食から夕食まで、一日中、台所に立っている女房を見ながら「よくも飽きずに何年も、こんな事をやっていられるものだ」と感心するのが関の山。
暇が有れば「食事用の買い物」「支度から片付け」と、これまた凄い。
とは言え、手伝う気も無ければ、献立、料理の進行にも興味が無い。興味の無い事には眼に映る料理の過程も脳に届かない。
料理とは女の仕事と教育をされた幼少(笑い)の頃。「台所には男が入るな」の一言。
御料庁長官職にあった厳しい祖父、気位の高い祖母も口うるさい、軍人だった怖い父。
長官が何者か、軍人が何だか全く理解の出来なかった、腕白だけの馬鹿な私は、料理担当の女中さんに「釜の底に着いた、こげたご飯に塩をまぶした、おむすびをねだる」ために台所に忍び込む。子供心に上手くいったと思いきや、祖母の目は千里眼。父の耳に入り、夕食のお預け。辛かった。
この教育は私を間違った方向へ導いたと、今でもその思いは変わらない。
そんな私がJO’Cのボランティアを始めてから料理(特に昼食)をする羽目になった。
「笑っちゃうよ」ほんとに。
辛いのは、「女房に小言を言われ」「小馬鹿にされ」「小突かれ」ながら、教えを請う我慢の加減と限界。
「解ったの?順番を間違わないように!紙に書いて置くから、ちゃんと読むのよ?」
「解ったよ、馬鹿じゃ有るまいし!一回見れば簡単だ」
見ていればいとも簡単に思えたし、覚えたつもりになったが。
さて当日、材料一式と調味料、細かく書かれた料理の手順表を入れた箱が戦争道具。
昼食まで2時間、時間は十分、任せておけよと手順表を壁に貼り、下準備に入る。
ザンビアからの若いトレーニーが「何か手伝うから、言ってよ!」と。
先生宜しく指示をするが、全く私の思っている、妻から教えられたようには行かない。
材料の野菜は洗わず、たまねぎ一つ切らせるにも、時間が掛かるし、包丁の使い方が違う。女房に言わせると私も「おぼつかないわね!」の部類だが、その私の足元にも及ばない。「毎日、どのように包丁を使って料理をしているのだろう?」と呆れる。
米の支度を指示。ところが米の量も測らず、磨ぎもしないし、水の分量もいい加減。
始めから私がやり直し。時間が無駄。
「OK,俺がやるから、食器類を洗って」
その俺様、何とか下準備が出来、鍋類をガスコンロに並べ、女房の教えを思い出す。
だが、火がつくと鍋の熱に驚かされ、途端に順番を追っている余裕は吹っ飛んだ。
どんどん熱くなり、焦げ始め、一度焦ると、あの教えなんか忘れてしまう。
「今日はフライドライス」35人分。
家での教授は2人分の料理。
大きい中華なべで6~7回、具を混ぜ炒める。その度に順序も味も違うのは、調味料の量だけではない、入れ忘れもあり、火の通りも違う。
炊飯器は家から持っていったもの2個、足りず鍋でも炊く。これまた炊き上がりが様々、家でとの違い。
「米が違うのだよ!ここのは、ロングライス」水加減が違うらしい。
とにかく、女房教授の教えとは程遠い代物が出来上がった。
炊き上がったご飯と具の混ぜ合わせ。出来上がり、35人分は想像が付かない。
ただ、必死のみ。頭の中は空洞。
女房には言えないが、後から味付け、醤油、胡麻油、塩、胡椒等々の順序、量なんか全く無視。所が、だよ。スッタフの連中に味見をさせたら「お世辞抜きに、美味い!」と。
私の舌には女房教授の味が染みているので「美味い」とは思わないが「我ながら上手く行った」と一安心。
お代わりをねだったメンバーもいたほど。
「トシ、最高だ。ありがとう」世辞でも私の料理に礼を言う。
30人を越す分量を作る、このこと自体、信じられないが、面白い。
どんな具合に、どんな味に、どんな物が出来上がるか私自身、全く分からないのに、どんどん料理らしき物に変化していく。
「やっと出来上がった」私の作ったフライドライス。
女房に見せたい思いが、感動を大きくした一日。
自分のボランティアに勝手に感動して馬鹿みたいだと思うが、こんな些細な出来事が私のボランティアを支え、毎週毎週、何年も続ける出掛ける原動力になっている。
その時任せの気持ちの入れ具合。
そうです「私なりに何とか美味い物を作って上げたい」と、その一心が、レスピーに無い味を加算したような気がする。
私の料理は「絶賛好評」につき、月数回の奮闘。
女房教授「来週は?」
弟子の私「コリアン料理」
「その前に家でテストをしなければね」
私のボランティアに夫婦の会話が味付けをする。
(JO’C:法人、精神障害者のサポートセンター)
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