私のボランティアNO78 広瀬寿武
(気持ちと気持ちの融合)
以前にも書いたが、ブラインドゴルフのプレイヤーで最高齢のWは93歳。
先週まで一緒にコースをヨチヨチ歩いていたが、入院をしたとの情報。
高齢ともなれば多くの病気を抱えているが、それでも毎週コースに立って自我を押し通していた。目の手術の後の回復が完全ではなく、10m先位までしか見えないらしい。
若い頃はハンディがシングルだったと威張り、キャディのヘルプに小言を言うのでボランティアキャディから敬遠されるが、それも余り気にしないで悠然としている。
さすが93歳!
そんな訳でコンペは最後の組でまわり、私がキャディをするMと一緒になる。
Mは全盲だから私の誘導がなければ一歩も進めないが、Wは一人乗りの電動を動かし私の影を追うように付いてくる。10m以内の距離を保ちながら、私はMとWのキャディをする。
Mは方向、距離は勿論、クラブの選考も相談しながらのプレイだが、Wは遥か?100m以上はなれたグリーンの方向、距離を見えないと思い指示しても、素直に聞き入れない。
私が立たせた方向が気に入らないのか、勝手に動き、距離に合わないクラブを持ち、時間を掛けて打つ。球の方向違いと、距離のバランスが上手く行かない。
グリーン上でも5~6mの距離を私がWの体と球の方向を合わせても、気に入らなく自分で合わせ直すが、どう見ても方向が違う。
「本当に見えているのかな?」と疑問に思うが、見えないとも言わないので
「勝手にどうぞ!」と、そのまま打たせる。
「俺の指示を聞かないのだから」と私は腹の中で文句を言うばかりか、時々腹が立つ。
だが、私達ボランティアキャディはコーチではない。プレイヤーの目の代わりをするだけなのだ。だから、距離と方向を教えればそれで良いのかも知れないが。しかし、プレイの結果が上手く行かなければ機嫌が悪く、キャディの気持ちにも影響する。
「コーチではなくても、指示を的確にしてあげれば、上手く出来ただろう」と反省をする事もしばしば。
Mは私の目を信頼し気持ちを理解して、余計なコーチ的な言葉も飲み込み、成績が上位、優勝をすること、時々。
Mとは4年になる。Wとは、ほんの数回。
共にコースを歩いた年数の差が気持ちの理解度に表れる。
盲人の頭の中を理解するのは不可能に近い。Wのように後天的な障害による人はまだ良いが、Mのような先天的な盲人には的確に説明する言葉すら分からないまま、毎週、毎週4年も続けていると、頼りにして掴んでいる私の腕にMの握力を通して「何となく」Mの気持ちのようなものが伝わってくる。
片耳難聴の障害が有るため、聞こえる方で私の話し掛ける声を聞き漏らさないように体全体で集中する。と、思っているが、その様子を妻に話すと「貴方の変な英語を一生懸命に理解しようといているのよ」口には出さないが「ふん、そうかもしれない」と確かに思う。
でも、私も何とか伝わるように「一生懸命に気持ちを込めた英語」にもう一度気持ちを込める。人と人との間には「気持ち」が大きな力を持つ。
O’Cのメンバーは、その日、その時によって精神障害の症状に変化があり、それの多くは心情、感情、気持ち等の精神的な内部に原因していると、精神科医が意図も簡単に説明をしてくれたが、私にはそんな抽象的な空気は理解出来ない。
だが、10年近く毎週、毎週メンバーと接していると、彼らは決して特別な存在ではないことに気が付く。医学的分析とは全く関係なく、私の気持ちと彼等の気持ちが、極、普通に融合する。
「トシ、今日はプールに行くか?」
「行くよ。スパバスにも入ろうよ」同じ事を毎週言っている。
ここ3ヶ月、彼等を温水プールへ連れて行き、運動をさせるのだが、ソーシャルワーカーは女性の1人。そのため私のボランティアデイに合わせ、スケジュールが組んである。と同時に「トシが行くなら俺も行きたいと皆が望んでいるから休まず来てくれ」上手く煽てられてのボランティアだが。
なんせ、年の功で私の適当な狡さが彼等の気持ちを「何となく」理解して、一緒に遊ぶ事が出来る性格が受けるのだろう、と、思うのだが、絶対必要な事は「相手の気持ちを常に読む努力をする」この一点にある。
私ごときが彼等の中に埋もれて融合するには、医療的な意味とは違った気持ちと気持ちのぶつかり合い、それも故意に作ったものではなく、極、自然な真心しかない。
真心とは自分を曝け出す、その勇気が必要だと気が付いてから、勇気が私の体に住み着いて一心同体になり何年になるか。
彼等はプールの中でも子供のようにはしゃぐ。他人の迷惑も考えず。
私もはしゃぐ。そして周りの人にそれとなく詫びる。
人々は笑って心を助けてくれる。有り難い。
そんな話をすると人は
「よくやるよ」と。お褒めの言葉ではない。
「いい歳をして恥ずかしくはないのか?よく出来るな?」
私のボランティアは毎週毎週、気持ちと気持ちの融合。
心をほんの少し助け、心に助けられる。
その一瞬に「きっと私と言う人間が生きているのでは」と、恋しく思い返す。
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