私のボランティアNO52
(常識と常識の差) 広瀬寿武
或る日本人の集まった会で「私達の常識から考えると・・・・云々」と
先ず自分の認識する常識を優先して、それを基準に判断を組み立てる発言.
生活の中で得た知恵、経験は「何となく」判断力の自信になり、安心感に
も繋がる.
だが、この「常識」と言う言葉に内在する意味合いは複雑怪奇、そして使
う人の主観的な部分に所属しているように感じること、暫し.
この「私達の常識・・・」は主観的でも有り、一般的な言葉の使い方でも
あるが、他国の内容に触れた発言から「私達日本人の常識から考えると・
・・」と私の理解の中に「日本人」がプラスされた.
さて、日本人の常識が世界の国、世界の民族等を理解、判断する基礎にな
るのだろうか?
単一民族で長い歴史を積み重ねて来た日本が、作り上げた貴重且つ素晴ら
しく価値有る常識は我々日本人の誇りでもあると私でも思う.生活の体感
から得た私なりの常識は安心感をも生む.だが、オ−ストラリア生活が身
に付き、十数年前に作ったインタ−ナショナルクラブも80人を越し
(ゴルフ、飲み食い、旅行、遊び等と週1回の気楽な集い)何時の間にか
一番歳上.ボランティアにも馴染み、引き摺り回され、多国籍民族の人達
と共に同じ空気を吸い、共有する時間が長くなると、私の力でも有った「
日本人の常識」に違和感を感じ、安心感が崩れ、戸惑いを覚える.
日本で認知される多くの常識が国の違い、民族国民性の違い等で認識が異
なる.時には全く相反することも珍しくない.
日本の常識は日本国内、国民の中で共通する価値観で有り、他国他国民に
にも及ぶものではない、と同時に他国民の中で熟成された常識も我々日本
人の基準に合わせようとすると、あっちこっちに無理が生ずる.
たかが常識の範囲と思い無意識でも無理を押しつけると、綻びがやがて大
きくなり、互いの理解の限界を越えてしまう苦しい事態を招く.
そんな事は百も承知だが、DNAと共に脳と体に住み着いた常識達は、
勝手に自分を主張してしまう.
私のボランティアの一つにモスリム(イスラム教徒)の人達と関わるもの
が有る.他のボランティアの中でもモスリムの人が何人かいて、話をしな
がらサポ−トするのだが、私の貧困な常識では理解出来ずボランティア行
為の範囲も狭くなり、打開の意味も有ってモスリムのボランティア団体と
関わる様になった.
ほんの表面しか知らない無知さが祟って、イスラム教徒の精神的内面の価
値観の違いに驚かされ、私の安心感の基でもある常識の違いに恐怖感すら
覚えた.それは善し悪しの問題ではない.常識とはこんなにも掛け離れた
違いを持っていると認識させられた事にある.
悪の中でも女は悪、それ以上に他の信仰を持つ人間は極限の悪、異質の存
在である.男女が崇高な愛で尊敬し合ったとしても異教徒との結婚は絶対
許されない.ただし、イスラム教徒の男がキリスト教徒、ユダヤ教徒の女
と結婚するのだけは許されるが、逆にイスラム教徒の女がユダヤ、キリス
ト教徒の男と結婚することは許されない.男は異教徒の女であっても正し
いイスラム教徒に導くことが出来るからと言うのが理由らしい.男性主導、
女性追従.女が男を導くなど想像だにしない.
私も男として女房に虚勢を張っている一人だが「馬鹿な!非常識だよ!」
と女性の肩を持つ訳ではないが、叫びたくなる.
「異教徒は悪.俺達には常識だよ」その行く先は聖戦(ジハ−ド)になる.
私は学者でも哲学者でもない凡凡人の端くれ.それでもたかが常識と無関
心でいたことに寒さを覚える.
戦争にも繋がる世界の異なる常識を理解し合う努力がなければ、憎しみ、
混乱、破壊の時代になってしまう.
イスラム世界が進める改革と、アメリカの利益が真っ向から対立している
現在、私のボランティアで得た「常識」をどのように活用すべきか、真剣
に考えなければ体感が悲しむ.
しかし、言うは安しで、何が出来るかと問われても返答のしようがない.
「O'Cでモハメット(仮名)に会ったら、彼の話を理解するよう努力しよう」
それが出来れば私のボランティアは上出来だ!
(O'C −精神障害者のケアセンタ−)
予言者(モハメッド)の言行録より.
「予言者は地獄の住人のほとんどが、女性であるのを見た」
男性はみんな極楽へ行くらしい.
女房に話したら「馬鹿じゃないの!」の一言.
「言われるのは当たり前だよ」と友人.「常識だよ」と表現を変えた.
ところが、モスリムの人から言わせれば女房も友人も異質な人間.
はたして誠意有る対話が成立するのだろうか.
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