私のボランティア NO14  広瀬寿武
 積もり積もった失敗の山

 時折、夢の中で失敗を再現しながら「また、やっちゃった」と苦笑する.
だが何時も深刻に圧迫を感じていないのか、目覚めても気持ちに負担を覚えない.
現実に大小関わらず、失敗は日に日に山積みされ、三年が過ぎようとしているのに
又、新しい失敗をする.一々苦にしていたら自分が潰される.だからと言って
失敗は当然と開き直っているわけではない.自分なりに気遣い努力はしているが、
ふとした事で気持ちの隙間に風が吹く.
人が相手の、特に医療関係のボランティアは日々に、いや、一時一時に心情、現象
症状が変化して、私の様な凡凡に馬鹿が付くと批判されている人間には、不向きで
はないかと考えた事も何度か有る.年数と経験が私をずうずうしくした序でに、
失敗を苦笑で片づけ、積もった山に知る事が出来た知恵を重ねる.
 O’Cのメンバ−.
純粋な気持ちを持つ人の中にいると、私の不実、不純な心が鏡に写る.それでもそ
んな自分を見詰め、少し変えてみようとはしない.それ処か彼らの上に立ってるか
の如く、接し方を調整する.体した男でも無いくせに!そこで失敗!
相談とも、お願いともつかぬ、いたって常識?的な事を話して来る.つい偉そうに
返答、説明をして全くの常識の範以内と私の一方的な考えを言って、稚児的な満足
を得る.こんな事は六十年の長い人生、あまた有り私事の経験から人の役に立って
きたと疑う事すら無かった.
ソ−シャルワ−カ−とのミ−ティングで.
「考え方、説明、感情の持ち方は人それぞれだ.異なった民族の文化が身に付いた
人は、常識その物が違う.トシの説明、考え方が間違ってはいないが、それは一つ
の考え方でしかない.彼らと話す時は、その事に配慮してほしい」
その通りだ.私の考え、経験、知識は私の内面の出来事.人に通用するかどうかは
別の事.時折、偉そうにあたかも経験、知識が豊富に持ち合わせているかの如くす
る.考えてみたら私には人に答える程の何物も無い.恥ずかしいが、この失敗に奢
りの罪を知った.
「それぞれの専門家がいるから、雑談してみたら良い.トシの考え方にプラスにな
るかも」以来よく話、よく遊ぶ.上には上が有ると失敗の楽しさを知る.

 CFで.
私は我ながら良く気が回ると、自負している部分が有る.
「ふん、てやんでぃ、笑わせるよ」
あくまでも自負だから、こざかしいと舌を出されても甘んじて受ける.
我々ドライバ−の仕事は、キャンサ−の患者のトランスポ−ト.車に乗せて病院へ、
病院から連れ帰る.その間の責任はドライバ−が負う.だがそれは組織の中の一つの
部分.全体の責任はCancer Foundation of WAに有る.
時折、患者へのサ−ビス過剰か、気の回し過ぎか、組織の責任を忘れる.
「トシ、チョコレ−トを買いたいんだけど」
「ス−パ−に寄れないか」
「メディケアにまで、お願い」「バンクへ  」「バスタ−ミナルまで」
私は過密なスケジュ−ルを縫って出来るだけ「OK」をする.
私のサ−ビスが何処かで漏れた.患者に悪気はない、嬉しかったのだろう.
マネ−ジャ−に呼ばれ「患者の為にサ−ビスするのはいいが、出来るだけここでの
ドライバ−の仕事の範囲内に留めてほしい」やんわりと窘められた.
要するに与えられたスケジュ−ル以外の行動は、責任の範囲が広まり、思わぬ事故も
有りうる.基本的には当然の事だ.言う事はよく理解できるが、何週間も顔色を見て
いるお客?さんに「ちょっと・・・」と言われると、希薄な道義心が責任の所在を忘
れ横道に逸れる.失敗とはこんな基本的なミスから始まる.
人は皆、いや、みんなと言ったらお叱りを食うかも知れないが、多かれ少なかれ親切
心から責任と無関係に日本的な「一寸なら」と言う経験が有ると思うが、ここではド
ライになる事も責任の内.気を回しサ−ビス過剰は気をつけなければ、大きな失敗に
繋がる.ボランティアとは結構難しいものだ.
それでも私のボランティアはこれからも、失敗の山をもっと高く積み上げる事だろう.

O’C 精神障害者の保護及びデェ−ケャセンタ−
CF ガン患者のサポ−ト、サ−ビスファンデ−ション

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