私のボランティアNO113 広瀬寿武
(友人、天国へ旅立つ)
数日前、当地で親しくしていた友人が天国へ旅立ってしまった。
「がん」の病魔は、友人に時間的余裕を与える優しさを忘れてしまった。
10月「体調に違和感がある」と病院での検査にまた検査の結果、
11月「がん」と診断された。
家も近く、普段から、いたって気易く行き来していたので、所事相談されることも多く有り、私達夫婦のみ知る事となった。
「がん」との告知を受けた彼の精神状態は想像を絶するもので、それは私達にも伝わってきた。
妻と、極力顔を出して、日々励まそうと相談。
「今朝の朝ご飯、上手かった?」「庭の花、良く咲いているね!」
「相撲中継、そろそろ、始まるね」「私より、顔色いいじゃないの!」
「これに付いて、意見を書いてよ」等々、私なりの「それとなく」会話と時間を過ごす話題を用意して、私達なりの励ましをした。
「トシさんが来ると元気が出るよ」「そうか、じゃ、また、明日ね」
医者の診断は体力にもよるが「余命、6ヶ月」(当然、彼には知らせていない)
だが、病院での治療と自分の体調の変化で状況を感じ始めていたのか、
「女房の事、後の事、葬儀の手配、等々を頼む」と。
「冗談じゃないよ、10月の南極観測隊のパーティ一緒にやってもらわないと」励ましにも寂しそうな笑い。
今年に入り2月、3月と目に見えて体調の悪化は進む一方。それに伴って、
夫人の看護、介護は重労働、過酷な様相に見え始めた。
彼80歳、1歳若い夫人、老老介護そのもの。
私の頭に「共倒れ」と言う状況が過ぎった。
この「私のボランティア」を書き始めの頃、私は「がんセンター」
(Cancer Foundation)のボランティアに従事、毎週1回、がん患者(10人程度)を治療の為、病院への送り迎えを担当していた。
パース以外の地からの患者をロッジに収容し、そこで日常のお世話をし、そこから病院へ治療に行く。
家族が世話をする場合、また、ロッジの世話係りに依頼する場合等々、患者夫々に違いは有るが、数週間、助け合って患者の世話をする。
先ず、看護者への気遣いが重要な意味を持つ世話の仕方を、私はボランティアで知った。
患者の世話は簡単な事ではない。それも毎日、四六時中。24時間。
患者の治療への送り迎えでも、苦労をした。ボランティアに従事する前に講習、実演、テスト、と、訓練を重ねたが、車に乗せ、降ろすだけでも
「80~100kg」の重さを動かすのは体験しないと分からない。
友人60kg弱でも、立ち上がる気力が無い場合は介添え者の大きな負担になる。
夫人から時々電話が来る「立ち上がれないの、助けて」2~3分で駆けつけるが、細い夫人の体力ではどうにもならない。
そこで、私がボランティアの体験、知った、方法を夫人に教え、実地させた。
それは大きな体力を必要とせず「てこ」の応用で「いち、にの、さん!」
「出来た、出来た!」「これで夜中も安心だわ」
そう夜中も数回トイレに置き、目覚める。その為、夫人は熟睡出来ない。
寝不足、食欲不振、ストレスで気力だけの毎日。昼夜を問わず24時間の介護。
「病院へ、入院させましょうよ」
「でも、人に、特に言葉がわからないから、可愛そうで」この心情は充分理解できたが、何回かの説得で何とか「入院」となった。
友人本人も安心したのか「食欲」が少し出て、「水を飲みたい」と童顔の笑み。
「私、夕べは睡眠薬を飲み、久しぶりに熟睡したわ」と夫人の安心感。
この施設は患者を治療する目的ではない、患者を2週程度預かり、日常の世話をする。
その間「看護、介護者が心身ともに休養し、体調を整え、また、介護への活力
取り戻す」為の優しい施設。
入院して4日目、夕方、静かに、側にいた夫人も気が付かないほど、静かに旅立った。
どんなに良く優しい施設でも、そこが人生最後の場所になったのが、果たして良かったのかと問いたくなるが。
余計な事をしたのではないかと、問いたくなるが。
私は「私のボランティア」で体験、体感、経験した種々の事が、友人と夫人、家族のために幾らかでも役立ったかと思う、安堵感が私を慰めた。
「私のボランティア」とは常に実生活の中にあることを再認識した。
まだ、何年続くか、全く分からないが、私のボランティアへの活力になる。
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