私のボランティアNO 104 広瀬寿武
(豊かで真実のボランティア心)

今年早々から、97歳の母が脳梗塞で倒れ、青森の老人病院に入院(青森の特別養護老人ホームに入所中)、病状が思わしくないとの知らせで、見舞ったが、高齢の為、特別な治療は難しく、「点滴」で状況を見守る日々が続き、一時、帰国したが、やせ細った体の血管に点滴の針も注射出来ず、全ての治療を止めざるを得ない状態になり、医者から「数日」と言われ、3月10日に連絡が来た。
「3月11日」あの「激甚」のニュース。
一日目、二日目、毎日、TVに噛り付いていた。
こんな日本の国難の折も折、どうしたものか考え悩んだ。
だが、母の危篤状態にも気が動転。落ち着いている積もりでも、気だけ焦る。
14日の飛行機に妻と二人で「飛び乗った」が、着いた日本での余りにも現実の被害状況の甚大さが目に、耳に、肌に感じ、パースで知りえた情報との違いに戸惑った。
青森とは被災地の一部、行くべき術が有るのか?
行っても良いのか?
行ける状態なのか?
新幹線、高速道路等、交通機関は全て不通。
何とか17日の最終便「弘前空港行き」に乗ったが「弘前空港が雪の為、着陸不可能な場合は羽田に引き返すか、三沢空港に降りる。だが、三沢から各方面へ行く汽車便は全て不通。道路も閉鎖」と機内アナウンス。
無事に青森空港着地を祈るだけ。
空港が眼下に見えたが「真っ白」な平面。
「着地を試みますが機長には十分な経験が有りますから、ご安心を」と。
無事降りた。機が着地し静止すると拍手が起きた。
雪の中を空港バスで1時間。暗い両面道路は雪の山。
バス停からホテルまでの雪の中に妻のヒールはくるぶしまで埋まり、大きなトランクは雪の上を滑らしながら運ぶ。10時半過ぎにホテルの玄関へ。
青森に妹が居て母の面倒を見ていたが、この災害でガソリン、灯油が全く購入不可、はたまたライフラインの破損で電気、ガスにも問題が生じ、迎えにも来れずの状態。
その上、電話、携帯も不通。やっと時間は掛かるが携帯メールでの連絡。
被災者、被害情報を優先して「無駄な?メール」も最小限にと。
後で知ったが「公衆電話」はいち早く、日本中、或いは外国にも?無料で使えた。
だが、現在、公衆電話の設置数が少なく、土地勘の無い青森地方で探すのは難しかった。
ホテルにも無く、近くの弘前駅に一台、それを利用した。
ホテルも電気、暖房、給湯の節減。当然ネオンも街灯も、看板の電気も自主的に節約を実行。朝食は「ないないづくし」だが、誰も文句を言わない。
被災状況が毎時、毎日、TVを埋め尽くしている。
青森、弘前は直接的な災害は無いが、近県近隣に被災地を抱え、官民を問わず、人々は被災地の人を思っているのが伝わってくる。
雪国の、雪深い土地での生活は想像を超えるが、被災地は寒冷地の真っ只中に有る。
町が消えた、家が無くなった、親が、肉親が、知る人が、居なくなった、着の身着のまま、裸足の子供が居た、みんな寒く冷たい中で心まで寒くしている。
どうにかしてあげたい、が。
誰もが、大人も子供達も、国籍を問わず、人の心は優しく、そして熱くなる。
「みんな被災者の皆さんを思っています。心は援助したいと思っています。届けます。出来る事を。頑張ってください。繫がっていますよ」

母は天命を大らかに全うした。そして私の人生で希なる体感をさせるべき為に、この被災真近い地に呼び寄せた。この大震災時に。
兄弟一族だけで葬儀を済ませ、満たされた気持ちを母に供えた。

4月に入りパースに帰ってからも、邦人会、様々な人々が日本へ気持ちを送り続けている。
私の脳裏にこびり付いて離れない思いが、今私を駆り立てている。
被災の中で親を亡くし、悲しみと不安な眼差しでたたずんでいる子供達。
何とか出来ないだろうか、一時でも安らぎを与える事が?
我が青春時代の友人達に語りかけた。
充実と英知を持った75歳仲間。
「一人でも二人でもパースで一時的な里親、一月でも半年でも」
パースの手配はパースで。
「送り出す方は日本サイドで」
これが成功するか否かは全く解らないが、種々の人、団体、NPOからの反響から前向きに協議しようと希望の小さな光が見え始めた。
世界が、人類が、我々が、一人一人が、何かを見詰め、何かを感じている。
ボランティアと言う仰々しい思いを持たず、人間の心で人に優しく繫がる。
豊かな真実のボランティア心を見ている嬉しさ。

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